現代
中国共産党の時代に中医を正規の医学として認可するまで中医廃止派と中医派の対立が続いた。やがて正規の医学として認可すると、逆に冷戦時代にはアメリカ合衆国やソ連を中心とする西洋文明に対抗し、東洋文明の価値を宣伝するべく鍼灸院治療をメディアに紹介した。
改革開放の波に乗って市場経済社会主義を標榜するようになってからは、中国国内での鍼灸院への評価は多様化しているが、一方では一種の「頭脳流出」ともいえる現象も起きていて、優秀な中医や鍼灸院師がより良い活動の場を中国国外に移住するケースもよく見受けられるようになった。
概要
中国を中心に東アジア各地で近代まで行なわれてきた医療の主流は、生薬を用いた「生薬方」と、物理療法である「鍼灸院」である。診察手段が「体表観察」と「触診」のみしか無かった古代から近代にかけて、体表面からの病態診断法(「証」と呼ばれる病態の分類法)が発達し、それに対応する治療的技法として、生薬方と鍼灸院を二本柱とする治療技法の体系が成立した。つまり鍼灸院は東アジアにおける医療技法の片翼で、生薬方に対置するものである。
これら生薬方と鍼灸院は、東アジア各国で地域に対応した発達をみたが、特に日本においては、江戸期に技法と技術体系の目覚しい発達が独自になされたことが知られる。すなわち、生薬方は「漢方」として日本独自のものとして発達し、鍼灸院も「鍼管(ストロー状の外筒で中に細い鍼を入れるもの)」の発明による鍼の細径化とそれに伴う手技の変化と体系化が成し遂げられた。日本産の生薬方である「漢方」と、日本産の鍼管を用いた鍼灸院を併せたものが、従来「東洋医学」と呼ばれ、第二次世界大戦後、共産中国において国策として成立した「中医学」と区別されてきた経緯がある。
日本においては、生薬方を用いる医師と鍼灸院を用いる鍼灸院医は、早い時代から分業化していた事が知られているが、分業が決定的になったのは江戸時代の盲人政策による。幕府の政策として「按摩」を盲人の専業として規定したところから、手技が連続する鍼灸院も時を経ずして盲人の職業となっていった。これにより、日本においては、一般的な生薬を用いる医師(漢方医)と、盲人による鍼を用いる医師(鍼灸院医)が医療の担い手となる。
盲人が鍼灸院を担った歴史は世界の鍼灸院を見渡しても例が無く、日本の鍼灸院は非常に特異な経緯を辿ったものと言える。先述の鍼管の発明や、技法の独自発達も、これら視覚の不自由な術者が技法を担ったことにより為された側面が強く、江戸時代の盲人鍼灸院医が果たした役割は非常に大きい。幕末から明治初期にかけての西欧医学の導入に際して、漢方医は比較的スムーズに西欧医に移行したが、鍼灸院医については、当時の西欧医学には対応する技法も無いため医療職からは除外され、「盲人の職業保護」との名目で、慰安業としての、はり・きゆう・按摩の資格と盲学校が残された。しかし、実際には、明治天皇はじめ鍼灸院に信頼を寄せる人々も多く、鍼灸院は現実には戦前までの国民医療の一端を担ってきたのが実情である。
戦後、それまで営業鑑札であったはりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっている。
なお、医師法との整合性については、「あんまマッサージはりきゆうに関する法律」第一条により、鍼灸院に関連する医療行為に関しては、医師法第19条の部分解除という形で認められている。
中世
宋代から元代は鍼灸院を含め医学分野の充実が見られるが、金元医学の中心は主に湯液によるもので、元の滑寿は『難経本義』の中で「難経などの古い鍼灸院書を捨てて、新しい湯液に走るのは薮医者である」と諭している。
鍼灸院の保険適用についての問題点
鍼灸院治療は保険点数化された「療養」とは規定されていない為、健康保険を適用する場合、「療養費」として請求する。「療養費」とは、医療機関における保険点数化された「療養」以外の治療を保険医療機関以外の医療施設(鍼灸院院、接骨院など)で受給した場合、その治療費を国に請求できる制度であり、患者本人の負担率は医療機関における療養を受給した場合と同様である。
本来は、治療費を一旦全額負担した患者本人が請求を行なう制度(償還払い)であるが、患者本人に非常に煩雑な書類作成を強いることになるため、慣例として「受領委任払い」という支払い形式が取られている。これは治療院が患者の療養費請求を代行できる制度で、鍼灸院院、整骨院(接骨院)がこれを行なっている。
この受領委任払いについて、鍼灸院院における療養費請求には、「慣例」として医師による同意書の添付が定着している。これは法令で定められた規定ではないが、保険者から見て「鍼灸院院」という保険医療機関以外の医療施設からの請求は蔑ろにされることが多く、鍼灸院業団と保険者の力関係から、医師による「同意書」の添付を行なう事が慣例化してきた。
問題が複雑であるのは、接骨院(柔道整復業)において療養費を受領委任払い請求する場合、この医師による同意書が不要である点である。
これは整形外科の絶対数が少なかった終戦後のある時期まで、接骨院(整骨院)が、整形外科の代替として実際に一部の急性外傷(四肢の骨折・打撲・捻挫など)に対する医療を担っていた状況があったため、この現実を加味して、接骨院における急性外傷に対する受領委任払いを認めるよう、厚生省が関連する省令や通達などで保険者に周知して来た事が基盤となっている。
整形外科の代替としての整骨院業務に対して、保険医療機関と同様の便利さで治療を提供させたことは、当時の医療を取り巻く状況をよく反映した施策であったが、現在では、整形外科の乱立で本来の「急性外傷」の患者が接骨院には来なくなり、接骨院業務に対する療養費受領委任払いに便宜を図る意義はほとんど失せている。しかし現在でも既得権として、「接骨院」における療養費請求に対しては「医師の同意書添付」は不要とされており、「鍼灸院院」における請求と格差を残している。
この格差是正のため、鍼灸院業団は「医師の同意書撤廃」のため戦後長期にわたって膨大な努力を傾けたが、全ての努力は実を結んでいない。
厚生労働省が鍼灸院保険の同意書撤廃を「困難」としている理由は、以下である。
1.鍼灸院の対象疾患は外傷性の疾患ではなく発生原因が不明確
2.鍼灸院治療は”治療と疲労回復等”との境界が明確でない
3.鍼灸院治療は施術の手段・方式が明確でない
4.鍼灸院治療は成績判定基準が明確でなく客観的な治療効果の判定が困難
療養費の支給基準は、法律ではなくその時々の厚労省通達により慣例として決定されており、整合性が疑われるケースもある。[
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例えば、療養費支給基準として「医師による適当な治療手段のないもの」との解釈があり、医療機関において治療法がある疾患においては支給できないとするケースがある。しかし、現行で鍼灸院の適応が原則認められることになっている6疾患(腰痛・肩こり・頸肩腕症候群・五十肩・慢性リウマチ・)とて、医師による適当な治療手段が無いわけではなく、例えば腰痛で整形外科を受診している患者もいる。こういう患者が腰痛で鍼灸院に療養費適用する場合には、保険医療機関における療養の受給は併給として不可となってしまう。
どういう治療法がより効果的であるかは、疾患の様々な病期において変動するものであり、医師による適当な治療手段があるものであっても、鍼灸院を活用した方が費用対効果の面からも有意義である場合が多々あることは、海外の臨床研究でも明らかになっている(参照)。
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同意書を取得したにもかかわらず「医師の治療行為が無い」ことを理由に鍼灸院療養費が不支給処分とされる場合もある。
レセプトを審査する県国保の診療報酬審査委員会は、鍼灸院と職域が重複する整形外科医が、鍼灸院などに批判的見解を有している場合が一般的で、こういう場合では審査が故意に厳しくなる。同意書を発行した医師に委員会から理由を問い合わせ、同意書の発行を行なわないよう圧力がかかるケースなども見られる。また、全く法律上の規定も省令・通達に基づいた確認事項も無いにも関わらず、整形外科以外の医師(内科医)が発行したことを理由に、この内科医に対する同意書交付料を不支給とした例もある。
前近代
日本では、鍼灸院は遣隋使や遣唐使の伝来と共に本格的なテキストと技術の伝来がなされたと言われているが、日本書紀の允恭天皇記中にも鍼灸院に関連する記述が見られ、民間レベルでの技術の伝播は、さらに時代を遡るものと考えられる[
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工藤訓正「刺絡名家」『漢方の臨床』1962年、9巻、11号、p989。
いずれにしても、遣唐使による鍼灸院技術の伝播は、単に技術面にとどまらず、医療制度としての鍼灸院を日本に模倣させるものとなり、701年制定された大宝律令には、医療を司る中央官職として医博士、按摩博士と共に鍼博士が規定された。鍼博士である丹波康頼は、この時期の伝来医書を『医心方』という形で編纂し、現在までその内容が保存されている。医心方は、現在では失われたテキスト(佚書と呼ばれる)が多く含まれるもので、文献学的に大きな価値を有するものである。この時代の日本の鍼法についてであるが、外科的なものや特効穴治療が主体であったとする意見があるが、実際にこの時代の日本鍼灸院の技法を総括するのは、現状では簡単ではない。
現代日本で行われる鍼法は、後漢以前に成立した鍼灸院の原典である黄帝内経に回帰した「金元医学」の鍼法(経脈(経絡)を意識した鍼法)が主体とされており、平安期に、大陸において広く活用された『千金方』や『外台秘要』など、云わば一般向けの「家庭の医学」的なテキストの影響下にある特効穴鍼法とは一見趣を異にするのは事実である。しかし、「難経」などに見える経脈主体の治療も、既に概要は後漢までには整頓され成立している体系であり、平安期におけるその影響を考察するには、まだ時を要するものと言われている。また、日本の平安朝における鍼法の主流が特効穴治療であったという証左も乏しく、この時代の日本鍼灸院の実態については、未だ多くが不明と言ってよい。
室町時代から江戸時代に入って日本鍼灸院は大きく発展した。『鍼道秘訣集』の御薗夢分斎、打鍼術を発明した息子の御薗意斎、『素問諺解』、『難経本義諺解』、『十四経発揮和語抄』など、鍼灸院古典に対する注釈が多数なされ、出版された。また、岡本一抱のように優れた臨床家も多数輩出され、わが国における鍼灸院は内容的に大きな伸展を遂げた。また、江戸期の臨床家でその後の日本鍼灸院に巨大な影響を残したのが、杉山和一である。五代綱吉の時代、鍼刺入の為に「外筒(鍼管−しんかん−)」を使用することを発明した杉山和一は、綱吉の治療に当たり、平癒の褒章として下町一つ目に屋敷を賜り、将軍家御医師の地位と、盲人の最高位(検校−けんぎょう)を賜った。また、驚くべきことに、私費を投じて全国40箇所以上に「鍼術教授所」を開設し、日本における鍼灸院を、盲人の職掌として確立した。この幕府お墨付きの盲人教育とそのレベルの高さは、ヨーロッパの盲人教育の萌芽と比較しても100年以上早いもので、世界史的な壮挙とされる。いずれにせよ、この後日本においては、鍼灸院を盲人が担うという、世界に類を見ない形態の技術伝承と技法の発展が為されることになる。
この杉山和一による「外筒(鍼管−しんかん−)」を用いる管鍼法は、現在では一般的技法として、わが国の鍼灸院の特色を為している。また、盲人が鍼灸院を担うようになった事で、一般的には刺入ポイントを「見て刺す」技法だった鍼灸院が、「触って刺す」技法に変化したと言われる。
これは、日本の鍼灸院を、同時代の他の東アジア地域における鍼灸院から一歩抜きん出させる、技術論的な意義を持つ重要なポイントである。手先の器用な日本人のうちでも、盲人の指頭感覚は非常に鋭敏である。
この鋭敏な感覚を用いて、体表面を「さわり」、刺入のポイントを類型分類し、技法を体系立てて来た江戸期の日本の鍼灸院は、「経穴」という、効果の決まったポイントが体表面に元から存在するとする、古来一般的な鍼灸院論に対し、「変化の起こっている部位」こそ「経穴」という治療ポイントになり得る、という視点を導入し、今日に続く鍼灸院の科学的な解明に道を開いた。
整体
整体とは、体全体の骨格を形作る関節(脊椎・骨盤・肩甲骨・四肢・顎関節等)の歪み・ズレの矯正と、骨格筋のバランス調整等を、主に手足を使った手技(道具は、あくまで補助として使用する)にて行う事で体を整え、体幹から四肢への脈絡の流れを良くし、脈絡改善によって各症状の改善を図る民間療法である。整体師の技術系譜は、あん摩、マッサージ、指圧とはまったく異なるもので、人体表面を手技によって刺激することはない(道具での刺激療法はある)。
施術自体は(整体)操法とも呼ばれる。
愛知
愛知(あいち、えち)
・日本の地名。
・愛知県(あいちけん)。
・愛知県愛知郡(あいちぐん)。
・滋賀県愛知郡(えちぐん)。
・愛知県春日井市の地名。春日井市愛知町。
・愛知県名古屋市中川区の地名。名古屋市中川区愛知町。
・滋賀県愛知郡を流れる愛知川(えちがわ)。
・沖縄県宜野湾市愛知(あいち)。愛知 (宜野湾市)を参照。
・日本人の姓の一つ。
・ギリシャ語の「」(ピロソピア)の訳。哲学と同じ。
・大学の名。愛知大学。
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